These events demonstrate the contradictions in these once-empires; Here is why;
パリ五輪開会式と米国大統領選に見る帝国の崩壊
クーベルタンの祖国フランスで100年ぶりのオリンピックは否応なく興奮を掻き立てる。取り分け鉄仮面の騎士がセーヌ川を駆け抜け、聖火台が宙に舞い、セリーヌ・ディオンがエッフェル塔から歌い上げる演出は流石芸術の国フランスの真骨頂と私も高揚した。その反面、コンシエルジェリーからマリ・アントワネットの首を持つ女性が覗き、血の雨が窓から噴き出て、ルーブルの絵画から切り取った過去の支配者の顔がセーヌ河に溺れかけ、最後の晩餐を模したテーブルに、「私は裸」と繰り返す豚のようなディオニソス等々、伝統的なフランス文化、フランスの歴史、キリスト教を愚弄するような演出が多くみられた。又、LGBTを礼賛するかのごとき演出もあり、殆どの参加者、ダンサー他が怒っているように見え、笑顔でパーフォーマンスをしている人が少なかった。人類和合の象徴と自称しているオリンピックなのに、である。更に、参加している人々の顔を見ると、移民系が、フランスの人口構成比(20%)をはるかに超えて不釣り合いに多く見られた。
このような演出には、フランス歴史の現代的矛盾が内包されていた。
フランスの近世史を現代に引きずる大きな座標軸が二つある。一つは革命の歴史である。フランス革命に見られた、ギロチンに代表されるその反権力、反既成勢力、そして暴力性は今やフランス国民のエートスの中に浸み込んでいる。その一方で、いかに反権力を気取っていても所詮人間の欲には勝てず、高級志向が厳然と気持ちの中に宿っている。更には自由・平等・博愛という革命シンボルの下で、Ancien Regimeの人間と自分は違い、政治哲学として被圧制者の側に寄り添うと主張しつつ、自分自身が手を汚す労働者になろうとはしないし、寧ろ金融・コンサル等々手を汚さない職業に憧れるといった国民性、特にエリート層、から逃れられない。ジーンズをはいて三ツ星レストランに行く、左派代表のミッテランが高級紳士服Arny‘sを贔屓にする、(こういう矛盾に満ちた連中をGauche Caviarと呼ぶ)、農民、労働者のストライキやその暴力には極めて寛容で「金持ち喧嘩せず」でやり過ごす、凡人は平等を叫んでもエリートのGrands Ecoles出身者支配を許容する、自分はブルジョアではないと否定しつつ南仏の別荘で優雅に夏休み、といった例は切りがない。革命があったのでそのDNAは引っ張っているが人間の本質的な欲望は抑えきれない、でも出来るだけ隠すという欺瞞的態度がそこに見られる。開会式の例で言えば、マリ・アントワネットを血祭りに挙げるが、その華やかな衣装や文化には憧れているのは明らかだ。また、ルーブルの肖像画を水攻めにしつつもルーブルを含めフランス文化を誇らしげにひけらかしている。
もう一つの座軸はフランスの植民地支配の歴史である。フランスの統治方式はイギリス(間接統治)とは異なり直接統治だった。フランス語を話し、文化を享受すればフランス人だということにして本国人を含め直接に統治した。これが平等の証だと言うばかりに。その結果混血が進み、フランス人が増え、これがフランス本土に移ってきても受容してきた。国境管理が厳しい時代はそれで良かったものの、ボーダレスの昨今はフランス人口の20%が移民となってしまい、その殆どがイスラム圏から来ている。彼らはイスラム文化に固執していて、キリスト教文化を基底に持つフランスで波紋を広げることになった。ムスレムをキリスト教文化に取り込むことは容易ではない。一神教は他の一神教を受け付けないのである。一神教が摩擦なく溶け込むには受容体が多神教/アニミスティックな社会のほうが容易である。それとイスラムは心の宗教というより行為の宗教であり、外面的な同質性が求められるので尚更、同化が難しい。今やフランス社会はすっかりアラブ・アフリカ系の人を中心に据えるという文化が出来上がってしまった。少数派が胸を張って舞台中央に躍り出たのである。開会式を見てほしい。古典的な白人フランス人は申し訳程度にしか参加していないではないか。聖火台に火をともす男女二人は非白人だし、ダンサーたちもアラブ・アフリカ系が人口構成比をはるかに超え、不均等なまでに参加している。これは何もオリンピックに限ったことではなくNetflixで米英の番組に出てくる俳優を見ていても同様なことが言える。しかしフランスのプログラムでの非白人の数は英米の比ではない。フランスは非白人の移民、特にイスラム系の移民に席巻されているのだ。これがマリー・ルペンの率いる、マスコミの定義によれば「極右」RNが出てきた背景である。
伝統的な白人のフランス人は自由・平等・博愛の思想を掲げてきた関係上、これら移民に対して強く出られない。むしろ積極的に彼らを擁護することで、自分たちは、正しい側にいることを証明しようとしており、その結果、フランス社会がどういう方向に進んでいるかを真剣に考えていない。開会式の「最後の晩餐」のようにキリスト教を愚弄しても構わない、そのことの長期的意味合いより自分自身の反権力、反既成勢力の反骨精神の方が重要なのだ。今やフランスは移民の第三、第四世代が出てきており、社会全体にこういう風潮が蔓延している。大会の目的の一つとされる「多様性」の発露であることは確かだが、多様性が果たして伝統的なフランスらしさを体現しているのだろうか?あるいは「多様性」というのは何を犠牲にしても包含すべき目標なのか?多様性を希求するには国境を開放しなければならない。その結果として生ずるのはアメリカ文化の浸透であり、あるいはヨーロッパの場合特にイスラム文化の浸透でもあり、固有の文化の消滅でもある。日本みたいに強固なアニミスティックな社会で人口構成も圧倒的に黄色人種の日本人であればもっと多様性を取り入れた方が良いに決まっている。しかしヨーロッパ、とくにフランスのように非白人の移民のレヴェルが20%を超えるような場合にはその国体は大きな変容を強いられよう。
ボーダレスの時代、国際化の時代、多様性の時代、それは一見魅力的に聞こえる。これが貿易を通じたモノの移転、ネットを通じたサービス・情報の移転に止まっておれば左程弊害は生じない。しかし生身の人間が移動し始めるとそれは文化の移転を伴う。そういう変化はモノ・サービス・情報の移転の程度がどれほどかということを考えたうえで、徐々に進めなければならない。力により急速に進めようとすれば必ず大きな摩擦を伴う。
奇しくも今年は米国の大統領選挙の年で、まさにドラマティックな、前例のない展開が繰り広げられている。ここにも約一世紀弱に亘りPax Americanaを支えてきた帝国の残像が色濃く残っている。
過去の植民地支配(特に中南米)とグローバライゼションに乗ってアメリカ的秩序を押し付けてきたことへの反動で今深い悩みを抱えている。Pax Americanaへの郷愁がMAGAというトランプの標語として現れた。植民地支配もグローバライゼションも進めば進むほどに人の移動とそれに伴う文化の移動が起こり、いたるところで軋轢が生ずる。英仏ともにその支配への疲労から帝国を諦めた。その最後のあがきはスエズ動乱であった。帝国の衰退時にはその反動で植民地の方からの人の移動が激しくなり本国において軋轢が生ずる。アメリカの場合、特異なのは最初から異文化間の共通理解を得るために、すべて法律に基づいて社会を律してきたことから、Affirmative Actionが起こると、少数の利益を主張することが正しいことだと法律で規定された。その結果事々左様に少数派が自己主張を強めた結果、未だに権力を握っているのは白人の多数派であることから、彼らが権力を振りかざして逆襲するという図式が出てきた。特に多数派だった白人の人口が直ぐにも非白人に抜かれ少数派になり、権力を奪われるのではないかとの恐怖心が逆襲へのモメンタムを増幅させている。
アメリカはフランスのような階級間の対立による国内の革命で国体が形成されなかったこともあり、フランスのように、少数派の権利主張を拒絶することを良しとしないというようなメンタリティー上の歯止めは、フランスと比べると少ない。それ故人種間の、又宗教観の違いからくる対立は先鋭化しがちである。更に銃規制がないことが暴力の連鎖を生んでいる。
米国は建国以来移民国家だったこともあり多様性の象徴とみなされてきた。しかし移民の出どころはごく最近まではユダヤ・キリスト教文化圏からの移民、それも白人のヨーロッパ人であり、基本的価値観を共有する人たちであった。黒人は基本的人権を奪われAffirmative Actionが出来るまでは(出来ても)殆どカウントされなかった。今アメリカで起こっていることは、フランスのように最早非白人の移民が止めどなく流入し、伝統文化を壊してしまったような段階までは至っておらず、かといってこのまま移民の流入を続けていると白人アメリカのアイデンティティが喪失しそうだとの焦燥感から起こっている対立であろう。
米仏双方とも、嘗て自分の文化に自信を持ち、経済・軍事・政治力もあったことで帝国を張ってきたが、最早国力的にこれを維持できなくなり(フランスはアルジェリア戦争時点)、植民地政策の負の面である人の流入による文化摩擦にさいなまれているが、かといって植民地に居た者たちの流入を拒むのは自分たちが擁護してきた(本当はユダヤ・キリスト文化だけに通用する)価値観と衝突する事との自己矛盾に四苦八苦しているというのが現状だと思う。言ってみれば身から出た錆をどうとるかという問題でもある。