77年目の覚醒

今年も又終戦記念日を迎えた。77年目になる。日本が主体的に戦いをやめたと言う事で終戦なのだろうが、戦火が公式に止まったのは9月2日のミズーリ号での降伏文書署名からである。9月2日を敗戦記念日とするのは恥辱なので今日がその代わりに選ばれたのであろう。

この77年間は日本人は戦前の歴史を悪としてこれを否定し、ひたすらこれから目を背けて、米国の庇護の下に、経済活動に邁進してきた。いつしかこれが習性となり日本人のメンタリティーにこびりついている気がする。確かに日本人が大陸人と戦いを交えた歴史は殆どなく、第二次大戦が余りにも悲惨だった故に、これを悪と見做すナイーヴな感覚はガラパゴスそのものなんだろう。

しかし、今年はその極東にある孤島に衝撃が走った。核大国で、日本が信奉する国連の守護神ともいえる安保理常任理事国のロシアが、事もあろうに核の威嚇と共にウクライナを正に侵略したのである。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」として「戦力を保持せず」「武力の行使を永久に放棄する」日本人にとって、これら憲法の前提が、国際社会の下では全く成り立たないことが明確になった。

日本人は歴史という者をどう考えているのだろうか?歴史は人間が紡いできた織物であり、人間の本性が赤裸々に明かされているのを分からないのだろうか?人間の歴史で平和と言うのは戦争の合間の一時であり、戦争は又平和の間の一時である。如何に念仏を唱えようが、戦いがなくなるということはない。又如何に平和を希求しようが、これが破られることは必定である。人間が欲と諦観の間を彷徨い、希望と絶望の間で悩むことの反映でもある。「歴史を鏡とする」というのはこういうバランス感覚を指さなければ意味がない。

真に必要なのはその両者のバランスを保つと言う事だと思う。平和を希求しつつ戦争にも備える。外交を絶やさず、国防を強化する。この二つが無ければ自分自身の安全や安寧は保たれない。中国、北朝鮮の脅威では中々自覚がなかった日本人も、ウクライナのお陰で、日本人も漸く国防力の強化に乗り出そうとしている。77年目にして漸く覚醒した日本を、床に入ったままで又惰眠を貪らせてはならない。